たとえ忘れてしまっても…





目が覚めて…

最初に認識したのは

痛いくらいに強く握られた手のひらの暖かさと

心配そうに覗き込んでいる男の人の真っ黒な瞳の光だった。





-1-

正面玄関を抜けると、雨上がりの真っ青な空が眩しかった。
病室の窓から見えていたのは、小雨を纏ったどんよりした雲ばかりだったから。
一瞬、まるで違う世界に飛び出してしまった気分になる。
新しい空気を胸いっぱい吸い込むと、少しだけ身体が軽くなったような気がした。


1週間前の雨の日。

私は事故に遭った。
買い物帰り、雨で視界の悪くなった路地を歩いていて、
近道しようとして乗り込んできたタクシーに跳ね飛ばされたらしい。
幸い大きな外傷もなく、1週間の検査であの退屈な病院から開放される。

今日はその退院の日。

「ルリちゃんっ、待ってよぉ〜!」

後ろから息を切らせて駆けてきたのが『ミスマル・ユリカ』さん。

「こらっ!ユリカ!病院で走るなっ!」

怒りながらもどこか優しく笑ってるのは『テンカワ・アキト』さん。

そして…
その後ろからゆっくり歩いてくるのが『カイト』さん。



私の家族にあたる人たち。



―――――らしい。


雨の事故は私の全てを白紙にしてしまった。












気が付いたら真っ白な部屋のベッドにいた。

周りを取り囲む知らない人たち。

隙間なく視界を埋める人の顔。
男の人の顔。女の人の顔。年配の人の顔。若い人の顔。
泣きそうな表情。心配そうな表情。怒ったような表情。苦しそうな表情。

訳はわからなかったけど、何となく大変なことが起きてるような気がした。

「何か…あったんですか?」

とりあえず状況を確認する。
途端に大騒ぎする人たち。
手を取り合って大喜びする人。泣き出す人。大声をあげる人。

あぁ、そっか。この人たちが気にしてたのは…私?

ぼんやり霞む頭でそれだけはわかった。

私…?私…何か…あったっけ?

別に何も浮かんでこない。
それよりも<この人たち誰だろう?>とぼんやり思った。

「あのぉ…」
「ん?なんだい?ルリちゃん」

一番そばにいて私の右手を握っていた男の人が答える声に、騒いでいた全員の注目が集まる。





「貴方たちは誰ですか?」





そのときのみんなの表情は忘れられない。




結局、忘れてしまったのは彼らのことだけじゃなかった。
頭がはっきりしてきたら、何も残ってないことに改めて気がついた。
自分のことも、今までのことも、大切だったことも、これからのことも
思い出にあたるものは1つ残らず消えてしまったらしい。

事故のショックか精神的なものか。
1週間の検査では特に異常は見つからなかった。
普段の生活に戻れば自然に思い出すかもしれない。
………思い出さないかもしれない。

ゆっくり様子をみることになった。











「あのさ。今日はちょっと早めに店あけてもいいかな?」

朝食を食べながらアキトさんがそう言いだした。

「じつは…新メニューを出そうと思うんだ。
 みんなに最初のお客になってもらいたくてさ」

少し照れた顔で話すアキトさん。
もちろん断るような理由もなく、私たちは喜んでOKした。

「ア・キ・ト♪新メニューってこの前挑戦してたやつ?」

「うん。そうそれ」

甘えるように話すユリカさんに嬉しそうに答えるアキトさん。

「とうとう完成ですか。
 もう一味足りないってずいぶん悩んでましたもんね」

「ルリちゃんとカイトのおかげだよ。
 特にルリちゃんが言ってくれた一言がヒントになったんだ」

「へぇ〜。どんなこと言ったの?」



ユリカさんの言葉に一瞬、空気が止まる。



――答えられない。


「あ…、えっと……」

困った笑みを浮かべるユリカさんとアキトさん。

「食べてみれば判りますよ」

カイトさんが横から平然と答えた。

「ここでヒントなんか知っちゃったら今夜の楽しみが半減しちゃいますよ。ね、ルリちゃん」

「え?あ…はい」

慌てて返事を返す。

「そうだな。腕によりをかけるから、ユリカも今夜を楽しみにしてくれよ」

「うん♪楽しみにしてるね」

そのまま今日の予定に話題は移っていく。



みんなの話を聞きながら心の中でホッとため息をついた。






2 へつづく






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